
*写真は、薬研(ヤゲン)。中医学院に展示してあった中国の古い薬研(生薬の切断に使用します)。漢方太陽堂には江戸時代の日本の薬研が展示してあります。
日本の伝統漢方”古方”との出会い
私は23歳までは普通の薬剤師として仕事をしていました。大学で化学を中心とした薬理学を学び、化学構造から医薬品を合成することを中心に勉強してきました。
丁度その頃、母が狭心症で倒れました。私は製薬会社を止め故郷の鹿児島に戻りました。鹿児島での仕事先は薬剤師会からの紹介で、ある薬局に薬剤師として勤務させていただきました。紹介された薬局が漢方中心という事も知らずに。
薬局に勤務すると今まで聞いた事もない漢方の話、漢方薬の名前。そして漢方の勉強です。戸惑いました。
勤務が終わった後、毎週2回2~3時間薬局に残り、漢方の勉強をさせられました。
そこの先生は中医師の免許を持っているにも関わらず、私達にお教え下さったのは日本の伝統漢方”古方”でした。1978年のことです。
最初の半年は訳も分からず、「こんな草や木が効くものか!」と思って、あまり勉強もせず遊び歩いていました。
その当時、私はアレルギー性鼻炎が酷く、抗ヒスタミン剤を自分で調合し服用する毎日でした。いつも漢方をお教えくださる先生が「漢方薬を飲みなさい。お金は要らないから」
嫌々、飲みだしました。それから3ヶ月ほどして鼻水が少なくなってくるのに気付きました。
それからです。漢方の勉強を一生懸命始めたのは。勤務が終わり、家に帰り、毎夜、漢方の本を読みあさりました。
漢方概念。世界観とは
*写真は、野生の霊芝。紫色ではなく、原種の黒色、黒芝です。栽培品と異なり作用も強いです。
私たち現代薬理学を学んだ者は、考え方がケミカル、科学的に成っています。
東洋医学の概念が、しっくり肌に合いません。薬学を学んでいない一般の人の方が、逆に東洋医学に入りやすいと思います。
2年ほど漢方を勉強し自分なりに「漢方は大体分かった」と思った時期がありました。その頃の私は、後輩の薬剤師に「葛根湯は麻黄が命」、「製薬メーカが造る製剤はエキス化の段階で精油、気剤が抜けている。香りを故意に付けている製品もある」など講釈をたれていました。今、考えれば恥ずかしい話です。
漢方を頭で理解できても、心の奥底では理解できない自分とのジレンマに悩んでいた時期です。
経方も学んだ、古典も本草学も学んだ、何千人と言う患者さんの相談も受け、患者さんを直接診て望診も学んだ。
でも深層心理と言いますか、心の奥底では、やはり東洋医学の思想観を理解できないジレンマとの戦いでした。そして本当には、東洋医学の概念を理解できませんでした。
結局、「漢方に対する反発の気持ち」と「漢方の知識は十分付けたという自信」。2つの相反する気持ちを持ちながら、漢方の世界から数年間遠ざかることと成りました。
漢方医学を商売として
*写真は、南方の生薬市場。ベトナムに近い生薬市場で見つけた桂皮の山。香木などの生薬が豊富な市場。
それからの私は、今まで学んだ十分すぎる程の漢方知識を商売として使っていきました。新たな漢方の勉強をすることもなく。
その当時、日本には現在のような「中医学」と言う言葉すら無い時代です。漢方の知識が本当に有る人は、少ない時代です。
徹底して漢方を勉強した私が、聞きかじりで漢方薬を売っている人達に負けるわけがありません。
私の商売は繁盛し、わずか数年で社員が18人在籍する会社にまで成長しました。青年実業家と言われ、社長業で有頂天に成っていた時期です。
また、西洋医学に馬鹿にされながら、日陰の漢方を守り続けた先生方が居らっしゃた時代でもあります(1980年頃)。
手術後、再発する坐骨神経痛
商売で有頂天に成っている頃、身内が坐骨神経痛に成りました。漢方薬のエキス剤を飲ませました。一向に良くなりません。
しばらくすると、その身内は、痛みと痺れが酷くなり、立つ事すら出来なくなりました。整形外科でブロック注射をして頂きましたが、改善しません。結局、入院、手術と成りました。あれほど勉強した漢方で、身内の坐骨神経痛すら治せなかったのです。悔しかったです。
それから1年ほど過ぎ、その身内の坐骨神経痛が再発しました。今度も痛みと痺れが激しく、立つ事も歩く事も出来なくなりました。トイレにも這って行く状態でした。手術から約1年ほどでの再発でした。
わずか1年の間に2回も手術をさせるわけにはいきません。煎じ薬を調合しました。以前勉強した漢方の知識を総動員して。
今度は見事に効きました。トイレも這って行く状態だったのが、見る見る改善したのです。身内は1年ほどの漢方治療で完全に坐骨神経痛が治りました。その後、再発する事もなく。
嬉しかったです。漢方の醍醐味を始めて実感した時でした。
一人になり、会社も処分し漢方の勉強を再開しました。古典、経方、本草学と受験勉強のように毎晩勉強したのを覚えています。
そして、今の漢方太陽堂を始めました。いづれ、お客様に役立つ漢方専門薬局を夢見て(1988年)。
腰痛・神経痛専門で評判に!
*写真は、桂林の山と川。この桂林には、私達日本漢方の古典「傷寒論(ショウカンロン)」の原本が残されています。後に、この古代「桂林傷寒論」を広州中医学院の教授よりプレゼントして頂くことになった。
漢方太陽堂が、私の田舎、鹿児島国分隼人の地で1989年スタートしました。
身内の立つことも出来ない坐骨神経痛を良くした経験を元に、当初「腰痛、坐骨神経痛専門」で漢方相談を開始しました。
煎じ薬を縦横無尽に使い、補助剤を使って面白いように腰痛、坐骨神経痛が良くなっていきました。「手術でしか良くなりません」と宣言された患者さん、手術をしたけど再発した患者さんが「先生、痛くなくなりました」、「正座が出来るようになりました」、「もう運動が出来るんですよ」。患者さんから聞く度に嬉しくてしようがありません。
朝、薬局のシャッタを開けると薬局の前に腰痛、神経痛の患者さんが並んでいるという日が続きました。
漢方の道に入り、人に喜んで頂き、今まで感じた事の無い幸せを感じました。
同時に、本人が「痛くても自力で歩ける間は、漢方で良くなること」、「レントゲン上は改善していないのに痛みや痺れの症状が消失する不思議さ」、「徹底した漢方治療をすると再発は殆どしないこと」を学びました。
痛みが1服で消えた患者さん
漢方相談を始めて3年が過ぎた頃。50歳半ばの女性が腰痛でご相談に来られました。近くの陶器工場で働いていらっしゃるご婦人です。
問診をすると、2~3年前から右足の膝より下の痺れ、両膝の痛み、腰痛、背中と胸の痛みが続いているとの事でした。また4~5年前より足首に水が貯まり整形外科で時々水を抜いているとの事でした。
問診の段階で、冷えと水毒、血虚、陰証で虚証を確認。煎じ薬で当帰四逆加呉茱萸生姜湯を投与しました。
次の日の朝、この患者さんが飛び込んで来ました。「昨夜、漢方薬を煎じて1回飲んで寝たら、今朝は腰の痛みが消えていました」。患者さんも驚いていましたが、私もビックリです。
その後、この患者さんは8日目に背中と胸の痛み、痺れも取れ、両膝と足首の痛みを残すのみと成りました。
15日後に、今度は残った膝の痛みを取るために、防已黄耆湯の加味方を投与しました。
不思議な事は起こるものです。また、飲みだして1週間くらいで今度は両膝(変形性膝関節症)と足首の痛みと腫れが取れたのです。
その後、この患者さんは風邪を引いても下痢をしても漢方太陽堂に来られるようになりました。
10年以上過ぎた今でも時々来られます。(2000年当時)
漢方の本や治療例報告を見ていると、数は少ないですが時々このような著効例が報告されています。この時、”説明のつかない漢方の不思議さ”に私も始めて経験し驚きました。
その後、同様の著効例を、皮膚病や神経症で何回か経験することと成りました。
中医学との出会いそして再び漢方古方へ
*写真は、中医学の生薬調剤風景。中医学病院での漢方薬の調剤。左は薬棚、右は投薬口。
その当時の私は、漢方の勉強をしたくて色々な専門書を読み漁っていました。系統立てた勉強をしたくて日本漢方協会にも入りました。
隣の県で行われていた中医学の勉強会に通いだしたのもこの頃です。中医学を勉強して新しい考え方を学びました。今でも臨床上参考になっているのが、「帰経」と「入薬」の考え方です。私の学んだ古方派の漢方理論には殆ど無い理論でした。
でも何かが違ったのです。古方は理屈ではありません。多くの患者さんを通して感覚で学ぶのです。漁師が「雨が降る」と言えば、天気予報は晴れでも雨が降るのです。
ある人が、「昔はどの町にも名医が居た。患者さんが遠方から訪ねてくる名医が居た。今は、何処も検査結果を元に同じ薬が出る。」と言ったのを思い出します。今流行の漢方はそれに似たところが有ります。
結局、私には古方しか肌に合いませんでした。この頃には、漢方の世界で古方をやる人間は殆ど居なくなっていました(1990年頃)。
古方は、教科書では勉強できないのです。自分の目と五感で学ぶのです。古方には師匠が必要だったのです。