陰陽と太極

漢方コラム

2023年8月1日。写真は今年の博多山笠西流です。

陰陽と平

新古方薬嚢には

薬、食には五味とは別に気キなる働きある物あり、この働きを大別して寒と熱となす。寒の微なるものを涼となし、熱の微なるものを温となす。そのいずれにも偏せず特に気の働きを発せざるものを平となす。

と記述してあります。

東洋医学には陰と陽があります

陰から陽への変わり目を陰中の陽、陽から陰への変わり目を陽中の陰と考えています。

陰から陰中の陽へ、次は陽へ。陽から陽中の陰へ、また陰へ戻ります。之を繰り返しています。

冬、陰から春、陰中の陽へ、次は夏、陽へ。夏から秋、陽中の陰へ、また冬、陰へ戻ります。季節が繰り返すのと同じです。

人間の一生も、胎児は陰中の陽で、赤ちゃんは陽。20代後半から陽中の陰、40代から陰になると考えています。

1日の推移も、夜中の3時頃より交感神経が高ぶり始め陰中の陽、日の出と共に陽。午後を過ぎ太陽が傾き出すと陽中の陰、日の入りから陰に入ります。これを繰り返しています。

気温が一番高い14時頃は、陽中の陰で陰に入っていることが注目です。気温が高いと言う結果や現症ではありません。エネルギーの向き、太陽が昇って行っている陽、降りかけてくる陰。スペクトルがどちらを向いているかで陰陽が決まる事が重要です。

陰陽と太極

病の進行状態を診る古方派の三陰三陽では

陽証では

表証である太陽病は、陰から陽への架け橋。太は架け橋の意味です。陰中の陽と捉えます。陰と陽の架け橋のため、陽病ではありますが悪寒や寒気の表寒の陰証が残っています。

裏証である陽明病は、陽と考えます。悪寒や寒気はありません。身体の内も外も熱状態です。脱水し血管内はドロドロで瘀血状態、腸にも熱証、子宮、卵巣も熱証、皮膚も熱証です。

その表証と裏証の中間、又は表証と裏証の両方を呈するのが少陽病と言います。

陰証では

太陰病は、陽から陰への架け橋です。陽中の陰と捉えます。陰病なのに虚熱キョネツが残り、口唇の荒れ、手足の火照り、舌には湿った白苔などの陽証が残ります。

少陰病から本当の意味の陰病です。陰証になります。内臓機能の低下、心機能の低下、新陳代謝も衰え身体も冷えます。表裏共に寒になります。

生体と患部の陰陽

東洋医学の治療を行うに当たり、生体全体は陰証なのに患部は陽証と言うことが有ります。

例えば虚証の女性で子宮筋腫がある時などです。虚証は陰証、子宮筋腫は瘀血で陽証です。治療は瘀血処方を虚実を和らげたり、或いは1日の分量を減薬し対応します。

このように生体全体の証と病の証が異なる事があります。生体全体の証と病の証が異なれば異なるほど治りやすい傾向にあります。

例えば皮膚病では

色白の桂枝加黄耆湯証の患者さんに脂漏性湿疹などの瀉心湯証である黄連、黄芩の組合せの柴胡清肝湯証などが出現した時などです。生体全体の証と患部の証が異なるため治りやすい傾向にあります。

逆に生体全体の証と患部の証が近似なら治りにくく、治療にも時間が掛かる可能性が出てきます。例えば温清飲証の患者さんに同じ解毒症体質の柴胡清肝湯証の脂漏性湿疹ができた時などです。

東洋医学での病と治療

病は、身体が陰か陽に傾くことにより生じると、東洋医学では考えています。その陰陽を調和するのが東洋医学の治療です。陰陽が調和されたバランスの良い状態が太極であり健康だと考えています。

太極を目指す

黄帝内経難経八十一難に「実を更に実し、虚を更に虚せしめる事。不足を益々損じ、有余を更に益々増すような治法を行うなかれ」とあります。

神農本草経には「寒を治すには熱薬を用い、熱を治すには寒薬を用いる」。虚実、寒熱など陰陽のバランスを整える治法をしなさいとの教えです。

太極とは陰も陽も何もない状態ではなく、陰と陽のバランスが良い状態です。

寒証には熱薬を、熱証には寒薬を。湿証には燥薬を、燥証には潤薬を使います。

降の治療を例にすると

神経症や高血圧などの気の上衝に対して、何を用い気の上衝を下げるのか。

燥証では

燥証に気の上衝があれば、潤わし柔らかくし下げる五行の水、腎、鹹に配当される牡蠣や芒硝を用います。

湿証では

湿証に気の上衝があれば、乾燥し固めて下げる五行の火、心、心包、苦に配当される大黄や黄連を用います。

気の異常には気の上焦以外に気滞、気虚などがあります。気の上焦は、他に発散剤を用い治す方法なども有ります。

バランスの取れた太極にすることが東洋医学の治療です。

食養生もまったく同じです。誰にでも合うものなどありません。しいて誰にでも合うのは、民族が伝統的に守ってきた主食だけです。

平とは

では五気の寒、涼、平、温、熱の平とは何でしょう。平とは太極で、寒と温が、虚と実など、陰と陽がバランスよく成っている状態だと考えられます。漢方薬味では甘草が五気では平に成ります。処方では半夏厚朴湯などは五気ではなく虚実が平です。

糸練功や入江フィンガーテストが出来る先生は、半夏厚朴湯が実証にも虚証にも合う事に気付かれた先生もいらっしゃると思います。半夏厚朴湯は、虚証には補剤として働き、実証には瀉剤として働いています。生体が平の半夏厚朴湯を自分の身体に合わせ補瀉を使い分けています。不思議です。

漢方薬の植生

30年程前に、漢方生薬の培養をしている研究施設を訪れたことが有ります。その研究所では当帰も川芎も同じ成分の培養液の中で育てていました。不思議でした。当帰と川芎では成分組成が異なります。効能も川芎は上焦へ、当帰は下焦へ働きます。

しかし「植物は各々自分に必要な成分を根から吸収する」そうです。だから「異なった植物でも同じ培養液で育つ」とのことです。

その土地で、植物は自分に必要な成分をそれぞれが吸収しています。不思議です。人間も同じなのかもしれません。

井戸掘り

20年以上前のことです。ラジオでオーストラリアの女子高校生が募金を300万円集め、アフリカに井戸を掘ったと聞きました。私は恥ずかしながら、その時にアフリカの水不足を知りました。

水の不足しているアフリカの村では、脱水に弱いお年寄りや赤ちゃんから犠牲になります。病気で亡くなるのではありません。水が無いだけなのです。

自分でも井戸が掘れると考えました。自分の子供たちが巣立ち、生活を変えるとできます。一度しかない人生、もう1回出来るかもと思いました。資金を出すだけでなく自分で井戸を掘りたいと思いました。水の無い村で井戸から水が出た瞬間、村の子供たちの喜ぶ顔が浮かびました。子供たちの喜ぶ顔が見たい私の我が儘だったのかもしれません。

その後、ロンドンで開催されたマラソンにマサイ族6人が盾と槍を持ち民族衣装で、井戸を掘る資金を得るため完走しました。私も井戸を掘る場所が決まりました。

母が病に倒れる

母が病に倒れ、様々な問題が生じ出来なくなりました。60歳を超え私の井戸掘りは夢と終わりました。今も後悔しています。人を傷つけたり、人に迷惑を掛けなければ、何を言われても構いません。後悔しないよう生きて下さい。一度しかない貴方の人生です。

無駄な物は無い

東洋医学では、人間の体に無駄な物は無いと考えています。扁桃肥大で扁桃腺を切り取る、虫垂炎で盲腸を切り取る、胆石で胆嚢を切り取る発想が東洋医学にはありません。最後の最後まで湯液、鍼灸、導引により対応していきます。

切除は出来るだけ減らすべきと思いますが、切除する事を否定してはいけません。それが東洋医学の良い所であり、また限界でもあるからです。東西両医学を適切に用い助かる患者さんが多くいらっしゃいます。東西両医学のお互いの長所、短所を選択すべきです。

自然界に無駄な物は無い

人にも無駄な人はいません。自然界では異なった植物のタンポポとハコベが同一には成れません。タンポポがありハコベがあり各々が小宇宙を作っています。

一人一人性格が異なり、人生が異なります。親子でも夫婦でも一心同体ではなく、離れすぎない近すぎない距離が小宇宙どうしの間にはあります。一人一人の長所を活かし輝く人々の人生が集まり、更に大きな小宇宙が形成できたら良いです。

東洋医学の小宇宙は、無駄な物は無い、無駄な人は居ない。いかに調和し太極になり、和するか」です。

天人合一

目に見える人間や植物だけではありません。目に見えない一生や経験にも無駄なものは有りません。成功だけでなく失敗も、楽しいことだけでなく悲しみも、目に見えない経験で今の貴方と言う小宇宙が出来ています。

自然界に無駄な物も動物も植物もありません。岩があり、岩の下が苔むし、そこで生きる虫がいます。山があり、水を貯え泉が湧きます。川が出来、水の恩恵を受ける生物を生かしています。

私達は周りに生かされています。同時に周りを生かしてもいます。周りを生かせば生かすほど、色んな経験も出来、世界も広がり、周りも自分も豊かになるのかもしれません。まさに東洋医学の天人合一の思想です。

素問の素

私が50歳になった頃です。大坂在住の知り合いの先生が、今までのご自分の生き方や生活を捨て古方派漢方一筋に変えられました。私はその男気に感銘したことがあります。悔しいですが、数年後に先生は亡くなられました。

私はその先生が勉強しやすいよう専門家向けのThe古方と言う本を書きました。A4で200ページ以上になりました。急いでその先生に届けたく3ヵ月間、1日の殆どの時間を使い書き続けました。

桑と素

そしてThe古方の表紙には桑の実のイラストを持ってきました。

喫茶養生記を書かれた栄西禅師は桑を使った治療法を数多く残されています。

古典である素問は、私達東洋医学を志す人間の原点です。素問の素はカイコが桑の葉を食べ糸を引いてる姿です。まだ何にも染まっていない、真っ白な純白の絹の絲。素人、素肌、素顔、素焼き、他。

純白では現実の世界は生きれない、医療も東洋医学も敵である病邪を純粋と考えると邪気と戦えない。医術、臨床の技が必要になります。でも、その技を使う心に純白が必要だと思います。だから素問は東洋医学の心、基礎医学なのかもしれません。